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「身体の分類。自由の否定。」DSDsとスポーツ

身体の分類。自由の否定。Ché Ramsden 5 September 2016

 

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「セメンヤの性別(gender)を殊更に疑うこと。それは彼女の性別を再分類しようとし、彼女の女性性に疑いをかけるような行為だ。それは結局抑圧の構造を強めるだけなのだ。」

 

体の性の構造から人種まで、分類というものは抑圧の道具となっている。この記事では、特にキャスター・セメンヤに対して向けられた虐待的な仕打ちを検証し、今週のAWID発展途上国の女性の権利協会)国際フォーラムのテーマ「身体的主体性と自由」の更に先を見ていきたい。

10代前半の頃、クリスマスに私は祖母と一緒に、彼女のまだ生きていた母方いとこみんなに箱入りのビスケットを届ける手伝いをしていた。私達の親戚関係はとても広かったが、とても親密な関係だった。なので、最後のビスケットの箱を渡す叔母の名前を自分が知らないことに私は驚いた。「ドーンって誰?」

「イブリンおばさんの娘さんよ」。叔母のイブリンは私の曾祖母の妹。私の家のダイニングルームにおいてある古い家族写真には、赤ちゃんの頃のイブリンが写っていた。

「イブリンおばちゃんに娘さんがいるなんて知らなかった」

「イブリンが結婚した相手は白人だったの。だから他の家族のこと、知らないんだろうね」。

それからの20年間。私は南アフリカのあちこちで起きている話を聞き続けた。アパルトヘイトという分断で引き裂かれた家族たちの物語を。イブリンおばさんは大人になっての人生大半を「パスした」のだ。彼女は白人地区に居住し、周りの白人社会や子どもたちには、自分の出身を隠してきたのだ。一方、彼女の他の親戚たちは「有色人種」に分類された。おばさんは見てきたのだ。彼女の黒人の妹達がアパルトヘイト下で受けてきた仕打ちを。強制移住というトラウマ的な体験も。私は想像する。イブリンが感じただろう感情を。自分も「見つけられるのではないか」という恐怖の感情を。

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 見た目で肌が白い方だった私の曾祖母も「白人との結婚」を勧められたが、彼女が恋に落ちたのは、肌が黒い今の夫だった。ふたりの上の娘さんは母親と同じ顔の色だったが、私の祖母とその父親は、白人の親戚のところには立ち寄らないようにしていた。イブリンおばさんとその夫を白人社会の中で「困らせない」ためだ。ドーンは15歳になるまで知らなかったのだ。私達のビスケットの箱を受け取る人全員の存在を自分が知らないということを。

小さな私の世界はひっくり返った。ドーンの家に着いて、自分の新しい年老いた白いおばさんにビスケットの箱を手渡す時も、なんだかぎこちない沈黙の中でだった。家に帰る途中、私は更にイブリンの家族の現実を知ることになる。「でも…、おばさんの子どもは何も聞かなかったの?自分におばさんやいとこがいるって知ってたら、おばあちゃんのお父さんやおばあちゃんのこと心配じゃなかったの?おばさんやみんなは、他のみんながどこに住んでるか知らなかったの?」

「多分…、おばさんの母親は、私たちを家族だとはあまり思ってなかっただけなんだよ…」。でも、彼女は私たちの家族なのだ。そして、おばあちゃんは一言だけ言った。「アパルトヘイトなんて気違いじみてる」。


分類

 私がこの話をしているのは、分類というものが意味のないものであり、同時にかつ意味のあるものだということを描くためだ。「えんぴつ検査」が政治的ツールとして合法化されているのを見れば、分類というものに、奇妙で現実的じゃないものがあることに気づくだろう。多くの南アフリカ人にとっては、人種間の境界というものがいかに勝手独断なものなのか、しかしそれがいかに鋭く人々を分断し、どれだけ深く人を傷つけるものなのか、我々の歴史と体験が示している。

 9月初旬、私はブラジルに発ち、第13AWID国際フォーラムで発表をする予定だ。「身体の主体性と自由」がフォーラムの全体テーマのひとつだ。2000人近い世界中のフェミニスト活動家と学者たちが、私たちの身体を通して体験してきた私たちのアイデンティティと生の現実について、忌憚なく議論できることを楽しみにしている。身体は、フェミニスト達の闘いでも主要な戦場で在り続けている。私たちの存在と自由に大きな影響を与える、人間の身体の分類は様々多くのものが折り重なっている。

 分類とは確かに抑圧のツールだ。そしてもちろんそれは事実に基づくものではなく、権力を基盤にするものだ。アパルトヘイトという分類システムは、それを支えるのが怪しい生物学や怪しい道徳という事実からも、人種というのは社会的に構築されているもの、すなわち社会的な虚構だと気付かされる。我々が使っている体の性を分類するシステムも全く同じだ。身体は様々なものであるはずだが、確かに我々は男性の身体・女性の身体というものに固執している。ジェンダークィアが第三のカテゴリーとして男性女性以外の分類の代替案として認知されつつある一方、インターセックスの体を持つ人々は、身体の主体性の権利をいまだに否定されている。

 しかし、短絡的に「インターセックス」を第三の分類に当てはめるのは、支配と抑圧を追い求めるシステムを強化するだけだ。キャスター・セメンヤリオ五輪女子800Mで金メダルを獲得した時に、彼女の周りで巻き起こった頑固な偏見や虐待の嵐を目撃した時、私はまさしくこの思いを感じざるを得なかった。

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 2009年の世界陸上で彼女が金メダルを獲得してから、セメンヤの才能は世界規模での疑念の目に晒されることになった。他の女性たちとの競技を許すには、彼女があまりに男っぽすぎるかどうかというわけだ。ジェニファー・ドイルは、「彼女の体格や彼女のヘアスタイル、彼女の服の種類、彼女のセクシャリティ、つまり、彼女をその代表とする黒人女性の男っぽさやクィア(性的マイノリティ)性」を元に、おせっかいにも強引にクィアな側面を暴き出そうとする「安っぽいスリル」を、にわか専門家気取りたちがいかに楽しんだか論述している。

 彼女自身に何の検査か知らされることもなく(なのでもちろん同意もなしに)、女性として競技する「適格性」を検証しようという医学的な検査が、2009年彼女に行われた。そしてまた彼女の同意もなく、国際陸上競技連盟IAAF)は、このような検査が行われたことを一般に公表した。さらにIAAFは、セメンヤのテストステロンレベルが「平均的な」女性より高い「高アンドロゲン症」だと報告したのだ。

これに応じてIAAFは、生まれつきテストステロンレベルが高い女性が競技に出られない「高アンドロゲン規制」を設けたが、これは、短距離走者のデュティ・チャンドの訴えから2015年常設仲裁裁判所によって保留されることに。こうしてセメンヤは彼女の生まれ持ったホルモン量を変えること無くリオ五輪で競技できることになった。しかし次には、彼女と競技した選手やIAAF、国際五輪委員会は、セメンヤが競技に出るのを許可するべきかどうかという疑問を新たに出している。

 キャスター・セメンヤの性別(gender)に対する疑問。特に、彼女の性別を新たに設定しようとしたり、彼女の女性性に疑いを投げかけたりするような疑問は、無邪気さ・無謬さを装いながらも、抑圧の構造を強化する。「公平性」や「正当性」という問いが投げかけられる時、またもやセメンヤの女性性は、ほとんど常に彼女の黒人性と結び付けられているのだ。

 

ミソジノワールMisogynoir

 セメンヤへの中傷が、女性競技で彼女が競技する「問題」をほのめかす時、実はそのような議論は彼女をある特定の眼で見るように誘っている。それは、人種差別的な偏見の眼へと常につながっているのだ。リオ五輪女子800M6位だったリンゼイ・シャープは、競技後の涙ながらのインタヴューで、セメンヤや銀・銅メダリストのフランシーヌ・ニヨンサバとマーガレット・ワンブイと競技することが「どれだけつらいことか皆分かってくれるはず。(イタリックは筆者)」と述べた。5位のジョアンナ・ジョズウィックは、あのメダリストたちは「テストステロン値がとても高くて、男性に近い人達。なんでああいう顔・体なのか、どんな容姿なのか、どんなふうに走るのか、見れば分かるでしょ。(イタリックは筆者)」と主張した。

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 ジョズウィックは更に自分の言わんとしてることをはっきり明言している。「私は(競技のゴールラインを切った)最初のヨーロッパ人であること、1位の白人であることを嬉しく思ってます」と。つまり、あのメダリストたちは黒くて速く走った(けれども、レコードとして記録されるべきじゃない)と。ジョズウィックとシャープの「明らかな」問題はここにある。だって、女子800Mの世界記録保持者である白人女性のヤルミラ・クラトフビロバは、彼女の女性性を疑われるようなこんな目にはあっていないのだから。

 あのメダリストたちが女性の世界に住まう適格性を持っているかどうかという疑念を投げかける時、シャープとジョズウィックは、少なくとも植民地主義や大陸間奴隷売買と同じくらい古い人種差別的神話を披露している。黒人女性は、白人女性とは異なる身体的カテゴリーに属している。だから、彼女たちの身体は、白人男性よりもハードな肉体労働に適しているという神話を。

アフメド・オーリンカ・スールーは、「遺伝子の問題じゃないよ。バーカ」という記事で、ジャマイカ人のスプリンターたちの遺伝子を検査して追い求めようとする傾向と、実はそれに付随する人種差別的ニセ科学について検証している。彼はこのような傾向を、「黒人を動物的に見るステレオタイプの現代的な延長」と呼んだ。ベルリン五輪ジェシー・オーエンス(訳者注:ヒトラーが白人種の優越性を証明するためにと意気込んだベルリン五輪で、4つの金メダルを獲得した黒人男性陸上選手)が、アドルフ・ヒトラーを赤ら顔にさせた80年後、科学的人種差別は(セメンヤに対する科学的性差別と一緒になって)、その差別性の偏見・偏狭さを覆い隠し正当化するのに今でも用いられているのだ。

 かと思うと一方では、マイケル・フェルプスは、泳ぎの際に「彼の超適応型脚部が『実質上のヒレ』になっている」と指摘されているが、彼の「魚のような」身体が原因で、他の男性選手と競技する許可を出すべきではないと警告されたり告発されたりしたことはない。競泳選手のケイティ・レデッキーの1500Mフリースタイルの記録は、既に男性選手の記録の領域に入っていて、彼女のその優越性はセメンヤのそれよりもずっと大きいということをジェニファー・ドイルは指摘しているが、ケイティ選手の女性性が攻撃的に疑問視されたことはない。

 

#HandsOffCaster#キャスターから手を離せ)

体の性の不正確な分類に対する告発は、女性選手にのみにされ、かつ特に南側諸国出身の女性に限られがちだ。驚くべきことに、女性の身体に対するこの不公平な監視規制に対して、フェミニストたちが反対の声をほとんどあげていないということだ。これは恐らく、人種差別的な物の見方によって、このような女性たちの身体が既にクィア化されているということなのだろう。

ジョン・ブランチは、(2012年の)ロンドン五輪で、18歳から21歳の4人の女性選手、全員とも発展途上国の地方出身者が、生まれつきのテストステロンレベルを理由に一度競技参加を止められているとレポートしている。この女性は4人とも「女性化」手術を受けさせられることになった。セメンヤの場合は、「高レベル」のテストステロンが問題の焦点とされた。しかし男性の場合の平均より高いテストステロンレベルが検査の対象とされたことはないのだ。

オリンピックが近づくに連れて、セメンヤ選手への興味関心が再度起きつつあったことに合わせて、南アフリカソーシャルメディア#HandsOffCaster(キャスターから手を離せ)キャンペーンが始まった。女性選手に身体的な侵襲処置が行われることに対して、具体的に「手を離せ!」とした呼びかけは適切なものだった。セメンヤの極個人の私的な領域と身体的自律性は、過去既に十分に土足で侵害されている。だから、#HandsOffCasterキャンペーンは、強力な警告となった。「もう十分だ!医学検査なんてただの侵害だ。同意なしだったら2倍にひどい。その結果がメディアにリークされ勝手に公表されたとなったら、3倍ひどい」と。

2016年五輪の閉会式で、各国がそれぞれの国の代表旗手を、リオデジャネイロのマラカナスタジアムに送り出した。旗手は、その国の「競技の英雄」に選ばれた選手だ。キャスター・セメンヤは、彼女の国の英雄として、南アフリカの旗を掲げていた。しかし私はそれほど誇らしくは感じられなかった。

 南アフリカチームは、同じ五輪の金メダリスト、ウェイド・バン・ニーキルクを選ぶこともできたはずだ。だって彼は男子400Mの世界記録を破ったのだから。しかし、セメンヤが旗手に選ばれたのは、チームの統一と強さを示すため、オリンピックアリーナでのその時の彼女の存在は、むしろ彼女なんていないほうがいいと思ってる様々な偏見を持つ人達に挑むことを目的としたものになっていた。「同性愛者はアフリカ人にはいない」と誤解している人達や、体の性の構造(sex)と性別(gender)の誤った理解。彼女の完全に自然なホルモンのコンビネーションは、そういう偏見を持つ人達を黙らせることになる。セメンヤの南アフリカでの多岐にわたる人気は、美しいケーキの上にかけられる粉砂糖だった。

 象徴性というものは、その人の人生の真実を表すものでも、その人自身に意味のあるものでもない。しかし、この瞬間を持つことは重要だった。彼女が一つの象徴となることは、南アフリカはセメンヤの味方だと伝えるだけでなく、彼女を自分たちの英雄として賞賛しようということを伝えることになったからだ。セメンヤは、彼女の生まれた人生を生き、自分がどうしたいかを自分で選び、誰に憚ることもなく愛し愛され、他の選手達と世界の舞台で自由に競技できるということが、南アフリカに住む私たちの望みなのだと。

 キャスター・セメンヤの勝利と、南アフリカ人がオリンピックの舞台に立ったこと、それはまるで私も同じ舞台に立てたように感じられた。さあ、このことをAWIDの舞台で皆に伝えよう、「フェミニストの未来」についてこのことを話そうと。自分の身体をあらゆる表象の中で取り戻す私たちの旅。女性とはこういうものだという抑圧的で狭量なシステムに収まることを拒否すること。それは、自由への不可欠なステップなのだ。AWIDのプログラムは、包括的でインターセクショナル(訳者注:様々な文化的社会的文脈を無視しないという意味)であることが約束されている。「人権と公正のために皆の力を結集しよう」。どうか、このページをご覧ください。

Ché Ramsden will be writing daily for 50.50 from this week's AWID Forum Feminist Futures: Building Collective Power for Rights and Justice, 8-11 September, Bahia, Brazil. openDemocracy 50.50 will be reporting daily from the Forum