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不平等との戦い:特権・遺伝子・性別・権力 DSDsとスポーツ(4)

 

不平等との戦い:特権・遺伝子・性別・権力

The Guardian記事 18 Feb 2018 by Anna Kessel

www.theguardian.com

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 父の故郷である南アフリカを初めて訪れたのは,まだ8歳の時。ヨハネスブルグ上空から街の家々を見下ろすと,トルコ石のように反射する何百もの水の曲線や点が目に入ってきた。私は興奮して叫んだ。「すごい!ここってみんなプールを持ってるの!?」

 すると父は私に鋭い目をして言ったものだ。「いや・・・。みんなじゃない」。それは1987年のこと。アパルトヘイトがまだ痛みと苦しみを与え続けていた年だった。

 この旅から学んだことは多かった。そう。不平等というものをこの身で初めて味わったのだ。旅が終わる頃には,自分では知っていたつもりだった多くのことに疑問を持つようになっていた。それまでの私は,家にプールを持てるなんて素晴らしいことだと思ってた。それまでの私は,みんな平等な競争の場からスタートできるものだと思ってたのだ。

 もちろんスポーツの世界もそれが大前提だ。スポーツの運営組織というものは,選手たちが公平な機会を与えられるスタートラインを確実に与えるために存在するものだろう。さまざまなルールを作ることで,公平な競技を実施するよう努めるのだ。しかしこの役割は問題が大きくなってきている。特に女性とスポーツとの関係において。女性であることの境界(私たちの遺伝子,私たちの見た目,私たちのもっとも私的な身体の一部と体験)を定めようと,これまでも女性は取締りを受け続けているのだ。困ったことに,私たちを保護するために作られたルールが,私たちへの抑圧となってきているのだ。

 南アフリカのランナー,キャスター・セメンヤの話は,おそらく他のいかなる問題以上に,この葛藤を表したものだろう。オリンピックやさまざまな大会の女子800mチャンピオンは,彼女が初めて国際的なステージで競技してから,陵辱と医学の侵襲的な処置,ヒステリーのような興奮の対象とされてきた。彼女はまた,セレナ・ウィリアムズの南アフリカ版のような,国の英雄,アイコンとしての地位も得てきた。

 セメンヤの話はスポーツ界の女性も分断した。それは時に不快なまでのものとなり,セメンヤが「高アンドロゲン症」(医学的にテストステロンの値が高くなる特徴を状態)持つと診断された後,イタリアの800mランナー,エリーサ・クスマ・ピッチョーネは,残酷にも彼女を「男だ」とラベリングし,大英帝国のランナーのひとり,リンゼイ・シャープは,スポーツ界でのセメンヤの存在を「不公平」と断罪し,マラソンの世界記録保持者ポーラ・ラドクリフは,「キャスター・セメンヤ800mで優勝する以上の結果を女性が求められるなんて,もうそれはスポーツとは言えなくなる」と言い切った。気味の悪いことに,こういった非難の声は圧倒的に白人女性によるもので,それとは対照的に,誰が女性選手なのか?という視線にさらされるのが,決まって南半球の有色人種女性なのだ。

 「大英帝国の選手であるというアイロニー。それは,この国の選手はリオ五輪の準備に27500万ポンドかけ,競技の公平性について根本的な疑義を唱えているが,その疑義をかけられている当の国の選手は,準備に190万ポンドもかけられていないということだ。こういった皮肉はどこかに忘れられてしまっている」。これは南アフリカの作家・著述家のシソンケ・ムシマンの言葉だ。彼女の指摘は重要だ。世界でもっとも裕福な国々が国際スポーツにかける投資金額には,みんな見て見ぬ振りの有様だからだ。リオオリンピック前,たった30カ国が80%のメダルを独占するだろうと思われていた。プライスウォーターハウスクーパーズのチーフエコノミスト,ジョン・ホークワースは,スポーツ界のこういうパターンは現代のグローバル経済による状況の映し鏡になっていると冷静に観ている。力のある選ばれた数少ない国だけが最高の報酬を刈り取っていくのだ。

 2009年のベルリン世界陸上。私は特派員記者として働いていた。セメンヤの話が初めて暴露された時だ。彼女が彼女の性器について報道されはじめたのは,彼女がまだ18歳の時だった。それは私の仕事の中でも,もっとも困難で,すさまじく心が痛み,気まずい思いのする話だった。世界中のスポーツメディアもこのような状況に対応した言葉を持ち合わせず,ジャーナリストたちは,「両性具有(男でも女でもない性別)」から「インターセックス」,そして「高アンドロゲン症」や「性分化疾患」と,専門用語の海をぎこちなく右往左往していた。

 それからの9年間,セメンヤは国際陸上競技連盟IAAF)の要請に応じてホルモン治療を受けていたが,その間も疑惑の視線は止むことはなかった。この間,スポーツ仲裁裁判所CAS)は,IAAFに対して,テストステロンの高値がセメンヤのようなアスリートに有利となるという決定的な証拠(エヴィデンス)が提出できない限りは,高アンドロゲン規制は保留にするべきだという判決を出した。我々ジャーナリストは,結局のところ,この問題の筋道を今でも不器用なままに航行している状況なのだ。

 すでに多くの人々が論じているところではあるが,高アンドロゲン症と言っても,それはひとりの選手の他の選手との違いを作る様々多くの遺伝子的素因のひとつでしかない。1960年台の賞を独占した,フィンランドクロスカントリースキー選手,Eero Mäntyrantaは,生まれつきに赤血球とヘモグロビンの数が多い遺伝子的体質であったし,ウサイン・ボルトは2メートル近い身長を持ち,光のような速さの足の回転で3回のオリンピックの競技を圧倒的な記録で撃破した。

 しかし誰一人として,本来だれも一様ではない競技という場での彼の存在について非難する人はいなかったはずだ。だったらなぜ,女性の高アンドロゲン症は規制されるべきだなんてことになるのだろうか?

 2016年のスポーツ学会に出席した際,生命倫理学者のシルヴィア・カンポレシー博士がこの問題について論じているのを聞くことができた。高アンドロゲン症規制が登場して以来,南半球出身の有色人種女性だけが性別テストのターゲットにされているとカンポレシーは指摘する。私は訊いてみた。「なぜそんなことになるんでしょう?」

 カンポレシーは答えた。「(身体を統治するスポーツという領域では),人種問題と性別問題には重なるところがあります。多分,帝国主義的な医学も。もし女性が基準を満たさなければ,外科手術やアンドロゲン抑制治療を受けねばならないという考えになっている。でも男性にはそういう必要が課されることはない。もし女性が卓越したパフォーマンスを発揮しすぎたり男性の成績範囲に近づきすぎたりすると,競技の公平性を保証するためには,そういう外れ値は抑制される必要がある。そんな考えがスポーツにはどうもあるらしい。現実的には,ある選手がチャンピオンになるには,他にもさまざまな遺伝子的要因や生物学的要因もあるし,それにトレーニングや精神的強さなども関係するはずなのですが。キャスター・セメンヤとボルトを比べてみるなら,彼女は別に外れ値ということにもならない。公平性をアンドロゲン値だけで定義するなんて狭量です。公平性というものはもっと大きな範囲の観念でしょう」。

 スタンフォード大学カトリーナ・カルケイジスは,デュティ・チャンドのケースで証言者となっている生命倫理学者だ。インドの短距離選手デュティ・チャンドは,2015年にCASに法的訴えを起こし,IAAFのテストステロン規制を2年保留にさせた。カルケイジスはこの問題にまつわる議論に対して新たな方向性を与えるキーマンになっている。彼女が呼ぶところの「テストステロン神話」という挑戦的な議論は特にそうだ。彼女の議論はこの問題の社会文化的な文脈で頻繁に引用されている。「テストステロン(T)の値が高い女性選手にはパフォーマンスの違いがあるのかどうか,IAAFは証明する必要がある。Tレベルが高い女性選手が女性選手同士の中で,どれほどのアドバンテージがあるかではなく,男性選手一般が女性選手よりも高いパフォーマンスの違いほどのものがあるのかどうかをだ。男性選手と女性選手では大きなパフォーマンスの違いがあるはずだ。CASはそれを1012%と見積もっている。そしてどのような研究でも,女性同士でこれほどの違いが出たことはないはずだ」

 セメンヤとチャンドについてのメディア報道の中には,彼女たちが辺境出身で,まるで出生地と遺伝子構造に関係があるかのように書いたものが大量にあった。カンポレシーは,高アンドロゲン症が英国と比べて南半球の国々により多くみられるなどという科学的エヴィデンスはないと語っている。「そんな憶測は間違いでしょう。アンドロゲンの値は人種によるものだなどという理論には私はとても懐疑的です。そういう状態には様々な原因があります。多嚢胞性卵巣症候群PCOS)といった軽い状態(英国では女性5人に1人)でも起こり得るものなのです」。

 これまでにアンドロゲン規制で白人の女性選手が引っかからないのは,彼女たちは西洋社会の考えるところの女性性から発する「見た目という引き金」に必ずしも順応する必要性がないからだと,カンポレシーは考えている。「私の直観としては,もちろんそういう特定のヘテロノーマティヴな女性性の基準に順応しなくてはならないというプレッシャーが女性に課されているのだと見ています。IAAFの高アンドロゲン症規制の考えの基盤はそういうものなのではないかと類推できます」。

 カンポレシーが言う基盤,つまりアンドロゲンの基準スコア表は,元々1961年に英国の2人の医師が作ったシステムをベースにしている。現在この規制は保留されているが,CASが判決を出す以前は,この基準がIAAFの女性競技の規制のひとつとして用いられていたのだ。

 この表を見ていると,なんだか大昔のものに出くわしたような印象になる。こんな基準が2015年まで使われていたと考えると不穏な気持ちになってくる。この基準表の多毛症の項目には,身体の11の様々な部位の「スコアリング表」が,手書きのイラストと共に付いている。顔のひげを剃っているかどうか問う一連のチェック項目まである。どんな方法で剃ったか?何度ほど剃っているか? 「汗腺の臭い」の査定項目もある。これは,女性の体を測定しカテゴライズし,それに合わなければ警鐘を鳴らすようなものだ。

 セメンヤの話が初めて暴露された時は,私の周りで彼女の容姿を元に彼女の性別について「議論」している人々が,当たり前のようにそういう話をしていることに驚いたものだ。もしセメンヤが白人だったら,髪が長く化粧をしてたら,あの時同じような喧々諤々の論争は果たして起きただろうか?

 私はシソンケ・ムシマンに,IAAFの選手容姿容貌チェックリスト,すなわち有色人種の女性を,偏狭な白人西洋的な視点から眺める制度について訊いてみた。ムシマンは語った。「そのとおり。私は今ここに座ってあなたに話をしてて,私の髪はとてもショートヘア,ほとんど髪が無いと言ってもいいですね。でもそれって南アフリカの女性では至って普通のことなんです。それに別にこれは「男性的」とか「男っぽい」とかいう意味ではない」。「そしてもちろん歴史的に振り返れば,白人世界の女性性という観念は,黒人世界の女性性という観念との比較で常に構築されてきています。なので白人女性の中で美しいとされる特徴を黒人女性が真似をすれば,それは美しいとみなされる。でももしそうしなければ,その黒人女性は醜いとみなされるのです」。

 白人社会の女性性が規定の女性性になっているのだ。「黒人女性は常に,女性のグラデーションの悪い側に立たされている。そしてその最たるものが,キャスターの話でした。たしかに彼女は高アンドロゲン症で,彼女の話は確かに更に劇的なものではあるでしょう。ですが,その劇的な話も実は,白人社会が作った女性性という観念のカテゴリーに落とし込まれて作られたものだったのです」。

 セメンヤは南アフリカに対する有名な事件になった。「人々はキャスターの話に色々な理由で興味を持ちました。性別(gender)やらアイデンティティやら,そういったものに。でも実は人々は,南アフリカを最後の辺境な植民地として興味を持ったのだと私は考えています」。 ムシマンは南アフリカのライターで学識者の Njabulo Ndebeleが書いた国際社会の白人性の自己防衛についての記事を引用した。南アフリカはどこもかしこも白人が所有するものなのだ,みたいな感覚がある。白人はそこで好き勝手に動き回って,そこで気持ちよくなれるものなのだ。そんなことを言いたげな。キャスター・セメンヤに起きたことも同じだと感じています。これもまた南アフリカと同じ。白人社会は南アフリカを所有し,何かを言える権利があるというわけです。彼女はつまりそういったもの全てと戦ったのです。彼女は,普通なら繊細な問題のはずのこと,英国だったら尚更繊細なはずのこと一つ一つで公然とした侮辱の対象となったわけです」。

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  セメンヤやデュティ・チャンドの生まれが,地方の「村落」であることについても私は訊いた。まるでこういうことは,植民地支配がまだ及んでいない「草原」の奥深くでのみ起きることみたいに思われてるんじゃないかと。「そのとおりです。なぜ南アフリカ人が彼女を強く認めているのか,それも理由のひとつです。キャスター・セメンヤを巡ってはそういう立ち回りもあるんです。南アフリカ人は本当にみんな,キャスター・セメンヤを愛しています。族長でもミソジニスト(女性嫌悪者)でもホモフォビア(同性愛嫌悪者)の人でも,そのほとんどがセメンヤを愛しているんです。ハッシュタグ
#castersemenyaで調べてみてください。どれだけ彼女がどんな南アフリカ人にも慕われているか,分かると思いますよ」。

          しかし,スポーツにおける女性の平等性擁護には,まだ大きな問題が残っているとムシマンは言う。たとえば南アフリカのサッカーチーム, Banyana Banyanaは,9月のCOSAFAカップで優勝するような偉業を達成したにもかかわらず,プレイには何ら賃金は払われておらず,ほぼ注目もされなかった。セメンヤが認められたのは,その生々しい体験の普遍性からだ。「キャスターがどのような視線にさらされたか,どのように語られたか,そこでの不公正が南アフリカで知られたからでしょう。彼女はより大きなものの代表となったのです。(アメリカのアフリカンアメリカンでテニス選手の)セリーナ・ウィリアムズはもっと男性的な体つきをしていて,私たち黒人が長年受けてきたステレオタイプや比喩が彼女によく使われてきました。だから黒人女性が何かを成したげた時,その人はある種の克服のモチーフになるのです。そういう卓越した人物がどういう扱いを受けてきたかを指摘することで,差別というのが現実的なものであるという証明することができますから。アフリカに住む人々はこう思えるんです。『彼女たちは素晴らしい。私たちが体験してきたことを彼女たちでさえ負わされてきた。だったら私たちにもどんなチャンスがあるのか?』って。だからもちろん私たちは彼女たちの味方になるんです。彼女たちは私たちの象徴なのですから」。

 誤りは,こういう女性選手の遺伝子にあるのではない。スポーツの価値やフェアプレイ,そして倫理の道を踏み外し,大きな組織が彼女たちのような女性たちを扱ってきた,そのあり方にあるのだ。まだ18歳の時,国のジュニアチャンピオンシップで優勝したチャンドは,自分は騙されて性別判定検査を受けさせられたと語っている。彼女の証言によれば,インド陸上連盟(AFI)の要請で,この10代の女性は,血液検査のためにデリーまで1,700キロ旅をすることになったが,分かる人間がいないから超音波検査を受けてもらうとしか言われなかった。しかしその場で,彼女はクリトリスや膣,陰唇,それに乳房やアンダーヘアも検査されたのだ。(AFIはチャンドのこの証言には異議を唱えている)。

 その後AFIは,インドのスポーツ専門家に,このケースは「やっかいな」ケースだと警告する関係書類を送る。ホルモン療法を受けることに同意したにもかかわらず,チャンドは即座に競技出場を禁止された。そして彼女はこれを拒否したのだ。

 医学的な理由もないのに選手に薬を飲んだり医学的処置を無理に受けさせるということには,多くの人が倫理的な懸念を持つだろう。スタンフォード大学生命倫理学者,カトリーナ・カルケイジスは,手術処置後の骨粗鬆症のリスクが増えることを警告しており,また退職した内分泌科医学博士のPeter Sonksenは,臨床内分泌代謝学雑誌で,クリトリスの切断や性腺切除といった「女性化」処置は「非倫理的」であると書いている。IAAFはそういう医学的処置には費用は払っても,選手のその後のアフターケアには関与しない。Sonken博士は,南半球から来た選手は,そういう処置後の継続的なホルモン補充やフォローアップとしての健康チェックを受けられない可能性もあり,本質的にネガティブな影響を与えるとしている。合衆国の健康に関する特別報告者であるDainius Pūrasは,ロンドンオリンピック4人の女性選手に行われたクリトリス減縮術,いわゆる「女性化」処置を,一種の女性性器去勢だとして激しく非難している。

(訳者注:ここでの「女性化」という言葉は,「半陰陽フレームワーク」という偏見がある人には,「男女どちらでもない人を,無理に女性にしている」と誤解されやすい。実際には,「女性ならばこれくらいのクリトリスの大きさでなければならない」という固定観念・規範から,女性のクリトリスを小さくする手術が行われるということを指している)。

 この話をどう理解すれば良いのか,更に大きな思考の枠組みが必要だ。カナダのスポーツジャーナリストShireen Ahmedは,西洋に住む我々が,いかにグローバルに重要な物語を語るごく少数のエリートに左右されているかということを強調している。Ahmedムスリムの女性としてスポーツに情熱を傾けたが,ヒジャブ禁止措置に見舞われ,社会サービスの仕事をやめ,スポーツライターになり,グローバリズム的価値に対して鋭い一撃を付けている。「こういうことをしている理由のひとつは,スポーツにおける女性選手の語られ方が本当に嫌だったからです」。彼女は続けて説明する。「そういう記事はほとんどが白人男性によって書かれてるんです。地政学的な文脈を理解したものなんて本当ほとんど無い。ムスリム女性も別に一枚岩じゃないんです」。

          西洋社会ではまるで自分たちは全てに対する解答を持っているかのように考えてしまう。しかしAhmedは,カナダの女性プロアイスホッケーリーグは,国技でもあるにもかかわらず,何の支援金も払われていないことを指摘する。食事代と旅費,それだけしか出ていないのだ。「これを知った時はギョッとしました。私たちは自分たちを先進国だと思いたいところでしょう。イギリスでもカナダでもオーストラリアでも。でもスポーツでの女性の困難は,マチルダス(豪女子サッカ代表チーム)が同一賃金を求めている話であろうと,デンマークの女性チームであろうと,イギリスのライオネス(女子サッカ代表チーム)であろうと,どこでも全く同じなんです」。

 彼女は,女子スター選手たちが国際サッカー連盟 (FIFA) に対して訴訟を起こしているにもかかわらず,2015年のカナダでの女子ワールドカップが人工芝で行われた騒動を引用した。「ええ。カナダは現在,2028年の男子ワールドカップに立候補していますが,人工芝ではなくもちろん天然芝の予定です。女性チームのこととなると,「4月まで冬なので芝生を保つことができません。もちろん,男性向けでない限り」と言ってるみたいなもので面白いです」。カナダのテレビで国際女子スポーツを見つけようと思うと大変なことになると,Ahmedは笑った。2017年,欧州女子選手権が開かれた際は,あるテレビ局が女子サッカーではなく「コーンホール(乾燥トウモロコシの入った袋を木の板に開けられた穴に投げ入れるゲーム)」の試合を放送した。「想像できますか。男子ユーロの試合は全部主要ネットワークで放送されました。放送がなければ,視聴者も出てくるわけがない。馬鹿げた話です。」

 Ahmedは長年にわたり,FIFAFIVBビーチバレーボールによる禁止解除から,女子ボクシングとコートバレーボールで進行中の戦いまで,スポーツとヒジャブに関する様々な進展を追跡してきた。

 2016年のオリンピックバレーボールで,「ブルカ対ビキニ」と茶化されたエジプト対ドイツ戦について書いたとき,Ahmedは女子だけに適用されている競技装具規定に書かれた不穏な指示を暴き出した。「バレーボール連盟が女性のビキニをセンチメーター単位で,ボトムのバンドの幅まで規定していることを知りませんでした。本当に心外に感じました。ムスリムの女性が着ているものをコントロールする話だと思って記事を書こうとしましたが,それどころではなく,すべての女性が着ているものをコントロールする話だったのです。半袖のラッシュガードをつけたいというオランダ人女性選手がいたのですが,彼女はビキニの代わりにTシャツを着るために,許可を特別に得なければならなかったんです。男性にはこのような取り締まりはないのに」。

 スポーツの世界は女性の扱いに直面せざるを得なくなっている。世界の女子サッカー界は,不払い賃金に抗議するナイジェリアの座り込みや,賃金と諸条件の平等に抗議するデンマークとアルゼンチンのストライキで闘っている。スポーツ選手だけの問題ではない。英国で働く女性ジャーナリストのためのグループであるSecond Sourceは,最近,メディアにおけるセクハラや虐待に取り組むために,超党派の政治的支援を得て設立された。それはとても必要なことだ。私が記事を書いている間に,ある女性ジャーナリストがソーシャルメディアで大胆にスポーツの意見を述べたために受け取ったメッセージのスクリーンショットを送ってきた。彼女は,自殺しろ,台所に戻れと言われていた。彼女のような社会的役割の多くの女性では,それが当たり前の出来事になっているのだ。

 「女性が含まれているかどうかを確認するのは,それほど複雑なことではありません」とAhmedは言う。しかし悲しきかな,スポーツにおける公平な競技場という概念は女性を落第させ続けている。2018年,今年は良い進歩をもたらす必要があるだろう。