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社会構築主義から社会的公正へ:インターセックスについての教え方を変えていくために

社会構築主義から社会的公正へ ~インターセックスについての教え方を変えていくために

 

Emi Koyama. Program Assistant. Intersex Society of North America.
Lisa Weasel. Assistant Professor. Department of Biology. Portland State university Assitant Professor

Published in Fall/Winter 2002 Issue of Women's Studies Quarterly

イントロダクション


 ここ10年以上もの間、インターセックスの話題は、セックスやジェンダーセクシュアリティの性質を調査するフェミニスト系の学者の注目をますます受けるようになっている。

 しかし、インターセックスという「現象」に対する学問的な興味は、インターセックスの状態を持つ人々自身の生活に、建設的(constructive)で役に立つものになっているとは限らない。なぜならそういった研究者は、インターセックスを、セックス・ジェンダー化された身体という社会構築主義を論証する理論的道具として、便利に用いることがほとんどで、ひとつの生きた体験として、(システム的な抹消と抵抗の現場それぞれとして)取り扱われることはほんの時々でしかない。

 本稿では、インターセックスについての問題が、女性学やその他の関連領域(ジェンダースタディーズやクイアスタディーズなど)において、どのように教えられてきたかを分析し、活動領域と学問領域のアプローチを、インターセックスの状態を持つ人々の生きた体験という観点中心へと統合していく新たなモデルを提案する。


背景



 インターセックスとは厳密には、「生殖と性のシステムの先天的変異」を要件とする医学的状態の一集団と定義される。

 言い換えれば、インターセックスの状態を持つ人々とは、非典型的な外性器、内性器の変異、あるいは非典型的な染色体の変異を伴う身体状態を持って生まれた人々のことである(Koyama3)。

 このようにインターセックスとは、単一の疾患カテゴリーのことではなく、先天性副腎皮質過形成(酵素欠損を伴う、遺伝学的女性におけるアンドロゲン過多と男性化)やアンドロゲン不応症(遺伝学的男性において、身体がアンドロゲンに反応せず、結果女性の表現型となることが多い)などといった、幅広い状態や疾患を含むものである。

 インターセックスの状態の頻度は、定義の仕方によって様々に異なるが、合衆国においては、2000人に1人(およそ1日に5人)の乳児が、外見的にインターセックスの状態で生まれ、早期の診断と処置をほどこされていると推定される。

 今日、インターセックスの状態に対する標準的な処置には、外科的介入とホルモン療法的介入があるが、これらは、視覚的により「正常」に見えるようにするために体の外見を変える(去勢・子宮を取り除く)ことを目的としている。しかし、このような処置は、必ずしもなにか特定の健康上の問題に取り組むためのものではない(おそらく健康上の問題もあるのだろうけれども)。

 このような外科手術は、自分自身に行われることを理解したり説明されたりするにはまだ幼いころ、幼児期早期に行われることが多く、成長してからも、自らの医療履歴について話をされることは滅多にない(Dreger16)。

 このような外科的処置は、ここ50年間行われ続けているにもかかわらず、長期においての効果や安全性についてのエヴィデンスはほとんどない。逆に、最近のいくつかの研究では、性器に対する早期の外科的処置は、社会適応を促すどころか、心理的・性的問題を引き起こすことが多いことが立証されている(Creighton et al.124);(Creighton 219);(Zucker,et al.300);(Alizai,et al.1588)。

 医療機関の社会的権力性や権威性が、一般社会における恐れや意識欠如と結びつき、このような外科的処置が、疑問を持たれないまま、インターセックスと定義された人々に、人生全体への苦痛を与えることを許してしまっている。

 1993年、インターセックスの状態を持つ人々数人により、Intersex Society of North America(ISNA)が作られた。これは、インターセックスの状態を持つ人々が、他のインターセックスの状態を持つ人々と繋がり、自分自身の身体のコントロールを取り戻すための支援組織である。

 ISNAは次のように述べる。

 「インターセックスの状態は、医療的・社会的に隠蔽されるほど後ろめたさを持ったものではないと私たちは信じています。
 私たちは、インターセックスの状態を持つ人々は、自らが体験した状況についていつでもすべての情報を知り、自らの体になされるべきことを自ら決める権利を持っていると思います。
 身体的な差異をなくしてしまうことが、起こりうるかもしれない社会的困難を解決する方法であるという考えには、私たちは反対します。むしろ、インターセックスの状態を持つ人々が、社会的・心理的介入において体験するかもしれない社会的困難を解決するべきであると思います。」(1)


女性学におけるインターセックス:我々は今どこにいるのか


 ここ数年、女性学においてインターセックスの話題が、関心と注目を集めるようになってきている。

 女性学の講座において、インターセックスの問題がどのように組み入れられているかを調べるために、我々は、この問題が女性学の課程においてどのように教えられているか、インターネットを用いた小規模な調査を行った。調査は、2001年春、調査に同意した24人の学者を対象に行われた。

 本調査への参加の案内は、女性学、クィアスタディーズなど関連する領域を取り扱う学術的なメーリングリストにて配布された。

 回答の集約は、特別に用意されたウェブサイトにて行われ、複数のテーマが分析された。

 統制された調査デザインや予備調査にはまったく耐えるものではなかったが、にもかかわらず、この先行調査のとりあえずもの結果は、我々の予想を確実に裏付けるものであった。すなわち、インターセックスという存在は、性別二元論の概念を脱構築するために研究される学術的な対象として理解・提示されており、生の人々に生の世界での関わりを持つ主体として理解・提示されることはほとんどなかった、ということである。

 我々の調査では、女性学の講座で行われるインターセックスの問題へのアプローチ方法は、教える側が適切な意図を持っていたとしても、きわめて限定されたものであるということが判明した。

 例えば、インターセックスの状態を持つ人々の中でも著名な人が書いたり編集した素材を用いた講座は、24例中4例に過ぎなかった。このような素材は、ここ数年の間に広く入手可能なものとなっており、インターセクシュアリティについて、どのような理論的議論においても中心となるような観点をもたらすかもしれないにも関わらずである。

 我々の調査によると、Anne Fausto-Sterlingの著作「The five sexes : why male and female are not enough」は、回答者の中では、適切なテキストとして今でも用いられている。その数は、24人の回答者のうちの15人がこの本を、19人が、この本とは別のFausto-Sterlingの著作、あるいは両方を用いているというものである。

 他の、インターセックス当事者でない研究者で、2回以上引用されたものは、Suzanne Kessler(6人)、Alice Domurat Dreger(3人)、Judith Butler(2人)、Kate Bomstei(1人)であった。

 インターセックスの状態を持つ本人の文章で言及されたものは、ISNA(3人)、Cheryl Chase(2人)、Angela Moreno(1人)、Morgan Holmes(1人)、Martha Coventry(1人)のみであった。

 素材の選択に関する質問では、インターセックスの人々自身が編集した素材を使用することで、インターセックスの人々に声を与えるよう意識的に努力をしたと報告した人は、全回答者のうち1人に過ぎなかった。

 インターセックスの状態を持つ本人による文章を複数用いたと答えた1人の回答者は、インターネットでそれらを見つけた学生たちから指摘されたと報告している。

 これは、インターセックスの状態を持つ人々のほとんどが、学術誌で公開をする手段を持たず、雑誌記事やウェブサイトといった非学術的な情報源を利用することが、ギリギリの戦略であったからだと思われる。

 回答の中には、インターセックスの問題と、トランスセクシュアルトランスジェンダーの問題とを混乱あるいは混同していると思われるものもいくつか存在した。これは、この質問の回答において、Kate Bornsteinなどのトランスセクシュアルトランスジェンダーによる著作、あるいは彼女についての著作をあげていたことからである。これらの著作はインターセックスの問題について深く触れていないものである。

 インターセックスの問題とトランスセクシュアルの問題が関連することはあるが、この二つの問題ばかりを関連させることで、インターセックスの状態を持つ人々の、自ら決定する権利やインフォームドコンセントの権利が、必要な医療的措置を提供するという名目で奪われてしまうという、インターセックス特有の問題点を見過ごしてしまうという誤謬を犯すことになる。

 インターセクシュアリティについて言及する素材を用いる理由として、ほぼ全員の回答者が、その主な目的のひとつは、人のセックス、ジェンダーセクシュアリティについての慣習的な理解を脱構築するためだと述べている。

 多くの回答の中で、この暴露的戦略は、ジェンダーロールや強制異性愛社会、そして科学的客観性さえも脱構築することを目的としている。

 回答者はインターセックスの問題を、ジェンダーの問題として、そしてジェンダーの社会構築性を説明する手段として利用しており、医療倫理の問題や、インターセックスの状態を持つ人々の人生と生活に、直に実感を伴って影響する諸問題をしっかりと取り上げようとするものはなかった。

 これは、回答者のだれもが、インターセックスの諸問題を意識に上らせることを考えていなかったということではない。少数ながら回答者の中には、インターセックスの諸問題を意識に上らせることを目的のひとつとしている人もいたからだ。

 しかしながら、これらのケースにおいても、彼らが設定した目的と、教育課程の中で使うのに選んだ素材との間には齟齬がある。

 たとえば、Fausto-Sterlingは、「The five sexes」を書いていた時点では、インターセックスの状態を持つ人々誰とも話しをすることはなく、ただただ歴史上のケースを論じただけであった。

 インターセックスの状態を持つ人々による現在の素材なしで、そのような古い素材を用いることは、インターセックスの諸問題を意識に上げ、自身がインターセックスの状態を持つ学生を肯定するどころか、インターセックスという存在を更に神話化、エキゾチシズム化し、過去の例外のように思わせることになる。

 別のケースでは、ある回答者は次のように書いている。「(インターセックスの)問題は取り残されており、もっと注目を集める必要があります。学生たちには、Kate BornsteinやLeslie Feinbergといったトランスセクシュアルの人たちの書いたものを読むように指導しています」。

 目的がインターセックスの諸問題を意識に上げることであっても、BornsteinやFeinbergのどちらもが、インターセックスの状態を持っていないことは知られており、二人の著作が、インターセックスの諸問題にどのような注目を集めさせるか不明である。

 恐らくではあるが、インターセクシュアリティ周辺の混乱と、上記のトランスセクシュアルトランスジェンダーとの混乱が元で、このような問題が起こっている可能性は高い。

 更に、可視化については、マージナルな集団の解放運動、すなわちLGBTレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の政治活動をそのまま持ち越せばいいということもあるかもしれないが、それ以上に、インターセックスの状態を持つ人々への支援がLGBTへの支援と比べ、形態がどのように違うのか、優先事項がどのように異なるのか、ほとんど考慮に入れられていないように思われる。

 2000年11月に行われた「National Gay and Lesbian Task Force’s Creating Change会議」で、あるインターセックスの状態を持つ人は次のように演説している。「実質上すべてのゲイやレズビアンが、自分たちの意思に反して矯正治療を強要され、それが完全な沈黙と秘密のうちになされるが故に互いに知り合うこともないとしたら、可視化という戦略は、政策の最後のほうになるでしょう」。

 LGBTのコミュニティは、インターセックスの問題について討論する場を確かに与えてはくれるだろうが、LGBTの政策にインターセクシュアリティの問題を加える、あるいは押し込めることで、インターセックスの状態を持つ人々が直面する特有かつ緊急の問題をかえって見えにくくしてしまうこととなる。

 インターセックスの状態を持つ人々は、その存在の周縁化と不可視化が広く行き渡っているため、インターセクシュアリティについてのクラス討論が、インターセックスの状態を持つ人々のエキゾチシズム化と客体化・疎外化を更に促す結果となってしまう恐れもある。

 このことは特に、自身がインターセックスの状態を持つ学生に、自身の状態を知る知らないに関わらず、こころの傷を与えてしまうことにもなる。

 そこで我々は、この調査から、インターセックスの状態を持つかもしれない学生にとって安心できる教育環境を、教官担当がいかに構築するか、結論を出した。

 教育環境に関する質問の回答には、約半数の回答者(11人)が、この種の問題を取り扱う講義の「基本的なやり方」であれば、このような問題には効果的に取り組むことができるはずだというものであった(しかし、この「基本的なやり方」がどのようなものかは、たいていの場合、はっきりと述べられていない)。

 更に、6人の回答者は、トランスジェンダーの問題や他のジェンダー関連の問題も講座で議論しているので、インターセックスの問題をことさらに取り上げることはないと回答した。

 インターセックスの問題に特有の教え方としては、統計を引用して、キャンパスにもたくさんのインターセックスの状態を持つ人がいるということや、学生の中にもインターセックスの状態を持つ人がいるかも知れず、そのことに気がついていないかもしれないということを示すというもの(8人)や、「もしあなたがインターセックスの子どもを持ったらどうしますか?」といった仮定上の質問をするというもの(2人)もあった。

 このような教え方は、インターセックスの存在を脱神話化、脱スティグマ化するよう考えられているが、実際には、インターセックスの状態を持つ人々を更に客体化・疎外化してしまう可能性もある。なぜなら、このような教え方は、学生の中には、自分やあるいは家族がインターセックスの状態を持つということを既に知っている人はいないということを前提にしているからである。

 更に前者のアプローチはまた、インターセクシュアリティという分類と医学的介入を、差し迫った身体的侵害の現場としてではなく、ちょっと面白い程度の生物学上の雑学に矮小化する危険を冒すことになる。

 我々が気づいた中でも更に問題があると思われるのは、回答者の中には、教室がインターセックスの状態を持つ学生にとって安心できるよう具体的に考慮するのではなく、インターセックスの状態を持たないない学生に有益であるようにする教え方を、実際に回答に書き記している人がいたということである。

 ある回答者は次のように書いていた。「私はこの問題をジェンダーの問題に関連させるようにしています。その方が議論しやすい人が多いのです。その方が簡単なんです。セックス(性別)(そしてジェンダー)は固定化されたものであるという学生自らの思い込み、つまり性別二元論を疑ってもらうには。」

 このアプローチには問題点がふたつある。ひとつは、このようなアプローチはインターセックスの状態を持つ人々の不可視化・疎外化を強化してしまうこと、そして、中心的・特権的な集団を周縁化された集団より優先しているということである。

 この回答者たちは、この問題をインターセックスの状態を持たない人々に応用して説明することで、インターセックスの状態を持つ人々のスティグマ化が当たり前で正当なものであるという考えを更に推し進めることになってしまう。

 更に、2人の回答者は、インターセックスの状態を持つとカミングアウトした学生は今までいなかったので、この問題を取り上げる必要はないと思っていると回答した。

 インターセックスの状態を持つ学生が教室で自己開示しないのは、この社会でのインターセックスの人々に対する強烈な消去と沈黙が教室でも起こっていることを示しているだけのことで、実際に存在しないわけではない。

 4人の教官は、インターセックスの状態を持つ学生が必要とすることに敏感になれるよう、インターセックスの状態を持つ人々が直面する問題について更なる教育を必要としたことを認めている。また、二人の回答者は、客体化・疎外化しないような方法で、インターセックスの状態を持つ人々が自らを語った教材を使っていると報告している。

 このような回答は、インターセックスの運動の目的や優先事項に合致したものである。

 本論で言及されていたインターセックスの状態を持つ人々が必要とすることについては、ISNAが教育セットを用意しており、これは、教官がインターセックスの問題を講座に取り入れるとき、インターセックスの人々の人生やリアリティ、そして医療的介入に関する社会的倫理的公正さの問題に注意を向けて教育できるように作られたものである。

 性別二元制という社会的構築については、補足的な教材として、インターセックスの状態を持つ人々や団体の声に、インターセックスの人々への不必要でトラウマを与えるような医療的外科処置への批判を加える中で、取り組んでいる。

 女性学の講座にインターセックスの話題を組み込み、意識を高めるのであれば、担当講師は、インターセクシュアリティの理論的側面だけでなく、インターセックスの状態を持つ人々それぞれが直面する現実的な緊急の問題についての理解を深めるようにすることが大切である。

 実質上すべての回答者が、先に述べたように、セックスとジェンダーの社会構築理論を取り上げんがためにインターセックスの問題を導入している。このような現状を考えれば、回答者の大多数(13人)が、講座の第一の目的は学生が社会構築理論を学ぶことと回答したのは驚くようなことではない。

 ただし中には、外科処置が正当化されるものかどうかという倫理上の「ジレンマ」について、学生は真剣に考えているとした回答者も実際にいた(5人)。そういった学生の中には、まずショックを受け(12人)、インターセックスの状態を持つ人々について更に学んでいくことに関心を持った人もいたし(4人)、インターセックスの状態を持つ子どもに対する医療的アビューズに愕然とする人もいた(3人)。

 4人の回答者は、インターセックスの問題に取り組むことから来た興味深い副産物について述べている。それは、講座でインターセックスの問題について議論すると、ゲイやレズビアンバイセクシュアルの学生が慰められたというものである。

 ある回答者は、「“カミングアウト”しているレズビアンの学生には、この問題はものすごくクールだと思った人もいた。どうやら何か苦痛が和らいだようだ」と記入している。

「私の講座を受けて、Fausto-Sterlingのようなこれまでとは異なった視点を聞くことで、自分についてずっと良く思えるようになったと言った、ゲイやレズビアンバイセクシュアルの学生がたくさんいました」と記入していた回答者もいた。

 これはポジティブな側面の効果ではあるが、女性学におけるインターセックスについての議論とは、ある教官が述べたように、どうやらしばしばそういうところばかりに夢中になってしまい、インターセックスの状態を持つ人々の人生に特有の問題や不安には取り組まないようだ。

 しかし、これは状況の正確な説明とは言えない。こういうことになってしまうのは、インターセックスについての議論がもともとそういう性質を持っているからだということではなく、インターセックスについての議論には、異なったフレームワーク、すなわち、医療倫理や社会的公正、そして社会的消去の問題に取り組んでいくフレームワークが必要だと考えたほうが良さそうだ。

 インターセックスの状態を持つ人々を手段としてだけではなく、目的として取り扱う講座、インターセックスの状態を持つ人々が自分自身の体験についての専門家・大家であり、彼らの声こそが重要な教材であるはずだと考えることから始まる、そのような講座こそが必要なのだ。

 フェミニストLGBTのコミュニティが、インターセックスの問題を認識し包摂することは、重要であり促されるべきであり、女性学やジェンダー学、クィアスタディーズの講座だけが、インターセクシュアリティの問題をカリキュラムに取り入れる唯一の場ではあるかもしれないが、インターセックスの問題をこのような領域の講座に導入するのならば、インターセックスの問題特有のあり方として、社会的な公正さを求める運動へと広げられていかなければならないし、その方が適切である。

 たとえ指導教官が適切な意図を持っていたとしても、インターセックスの状態を持つ人々が送る人生のリアリティへの認識や注意深いまなざしが欠如していると、せっかく問題を提示したとしても、先入観に満ちたものとなり、あるいは、意図もせずインターセックスの状態を持つ人々の不可視化や疎外化を促すことになってしまうのだ。


インターセックスの問題を教育する際のガイドライン


 以下に挙げるのは、女性学の講座でインターセックスの問題を取り上げるために、我々が熟考を重ねてきたガイドラインである。これらは明確なものではないが、本調査で明らかとなった共通の問題も取り上げているため、適切な立脚点になると思われる。

 

    • インターセックスの状態を持つ人々にオーソリティーを与えるように。インターセックスについて教えるときは、インターセックスの状態を持つ人々が書いたアカデミックな著作物同様、第一人者の語りも学生に紹介するように。Alice Dregerの「Intersex in the Age of Ethics」やISNAのウェブサイトで、そのような資料が手に入れられる。ただし、覗き見主義的な態度に任せないよう、気をつけなければならない。

    • インターセックスという存在を、ジェンダー/セックスの脱構築のためのみに不当に利用してはならない。インターセックスの状態を持つ人々が直面する、実際の生活上・人生上の問題に必ず着目するようにしなければならない。もし、社会構築理論を取り上げる必要があるのならば、インターセックスの状態を持つ人々に対する抑圧を明らかにし、食い止めるという文脈で取り上げるように。すなわち、人々を支援するために理論を用いるのであって、その逆ではない。



    • ジェンダーやセックスを脱構築したり、ジェンダーについての最新理論を実験するための実験材料に利用されたりすることが、インターセックスの状態を持つ人々の責務ではないことを念頭におくように。第三の性の一員になったり性的カテゴリーを覆すといったことには、インターセックスの状態を持つ人々の多くがまったく関心がないということに失望しないように。もちろん、インターセックスの状態であるかないかに関係なく、たまたまそういう事柄に関心を持った人への支援もするべきであるが。

    • 教官、学生とも、インターセックス運動を支援する具体的な作業に関与するように。フェミニストの学者は、ただ単にアカデミックな探求のためだけに利用するのではなく、自分たちが学んだ運動に、何らかの貢献をすることが重要である。

    • 教官自身がインターセックスの問題を学ぶように。たとえば、インターセックスの状態を持つ人々は、どのような言葉やフレーズを好むのか好まないのか、そしてそれは何故なのかを学ぶように。

 

結論


 第二派女性運動以前、女性の身体やセクシュアリティについて文献化された情報は、男性の医師によるもののみで、彼らは女性の身体やセクシュアリティに対するオーソリティを主張していた。しかし、女性の健康運動や「Our Bodies , ourselves」といった文献の出版は、そのような状況を一変させた。

 現代のフェミニスト学者は、これまで述べたように、インターセックスの状態を持つ人々が自らの声や語りを取り戻そうとする努力を、声や語りを教室で取り上げることで支援する、本質的道義と学問的責務を持っており、また同時に、フェミニズムと医学からのインターセクシュアリティへの視点を批判的に検討する道義と責務も負っている。

 なるほど、女性学の講座において、インターセックスの問題は徐々に関心と注目を集めつつあり、学生に教育し、問題周辺のアクティビズムを促していくことができるだろう空間を提供してはいる。

 しかしながら、インターセックスの状態を持つ人々の生活・人生に関する政治的・実際的問題についての研究は、フェミニストの学者が自らの理論的・教育的脱構築を支えんがためにインターセックスの状態を持つ人々の存在を利用する中で、周縁化されることがあまりに多かった。

 フェミニストの学者は、自らの理論や講座でジェンダーを「脱構築」せんがためにインターセックスの状態を持つ人々の存在を利用することに懸命で、医学の専門家は、フェミニストが分解しようとしている二元論的規範と基準に合わせんがために、不必要で危険を伴うことが多い外科処置を行って、インターセックスの身体を「再構築」することに忙しかった。

 インターセックスの問題に着手するフェミニストについては、理論と実践が交わること、すなわち、フェミニズムの学問と教育は、インターセックスの状態を持つ人々それぞれが直面する実際の生活・人生の問題に取り組む活動家の戦略とかみ合っていくことが重要なのである。

(原文)


原典の論文は、 クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 継承 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。