Nex Anex DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)情報サイト

ネクスDSDジャパンの別館です。ここでは,DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)の学術的な情報を発信していきます。

DSDsとキャスター・セメンヤ 排除と見世物小屋の分裂⑧「DSDsを持つ人々に対する「原初的差別」」

 

この章では,特にDSDs当事者の皆さん,家族の皆さんにとって,非常につらい描写及び画像が含まれております。どうか,お気持ちが落ち着いている時のみにご参照ください。そうでない場合は,この章は見ないことをおすすめします。

 

 2020年12月に発行された『ジェンダー法研究7号』(信山社浅倉むつ子先生・二宮周平先生責任編集)に掲載いただいた,ネクスDSDジャパン主宰・日本性分化疾患患者家族会連絡会代表ヨ ヘイルによる論考を,責任編集者の先生と信山社様のご厚意により,オンライン上で公開する許可をいただきました。

 一部情報をアップデートし,発行時に掲載できなかった画像資料などを加えています。

 

 大変残念なことですが,DSDsに対しては大学のジェンダー論を教えている先生方,LGBTQ等性的マイノリティのみなさんやアライのみなさん,性教育に携わる先生方,お医者様などでも,根深い誤解や偏見があります。

 当事者・家族のみなさんにはつらい描写もありますが,広く多くの方にお読みいただければと願っております。

 

DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患インターセックス)とキャスター・セメンヤ

排除と見世物小屋の分裂

 

目次

 

Ⅷ.DSDsを持つ人々に対する「原初的差別」

 

 LGBTQ等性的マイノリティの人々の社会的差別問題については法学関係でもよく取り上げられていることだろう。しかし、DSDsを持つ人々に対する「社会的」差別のトピックというのはほぼ聞かないと思われる。これは一つには、DSDsの大多数が、染色体や性腺、子宮の有無、外性器の形状など、一般的な社会生活においては外から見えるものではないこと、そして当事者の大多数がこういった体の状態を自分のアイデンティティとは見なしていないということにも関わるだろう1

1もちろん男児の乳房発達や女児の二次性徴不全など目に見える形で表れるケースもあるが、その人がたまたま性別違和があったり、スポーツの領域などでそれを自身の一種の「ギフト」とすることがない限りは、たいていの場合すぐにどうにかしてほしいと思うものである。また、DSDsの人は「顔貌が“中性的”」などという偏見もあるが、そういう顔貌は特にDSDsに限らず一般的なものであろう。

 

 しかし、本当に差別はないのだろうか。前述のキャスター・セメンヤのような話は、まさしく「差別」「人権侵害」と言えるだろう。オランダの報告書では、当事者たちは、可視化が高まればさらなる社会的偏見の押し付けにつながることを恐れていることを指摘している2。つまり、DSDsを持つ人々が社会に暴露された場合、自分が望まない「男でも女でもない」というスティグマを押し付けられ、あのような未曾有の状況になるのを恐れているということなのだ。

 さらに、なぜ「第三の性別欄」のように当事者の現実の状況や主張が全く無視され、LGBTムーブメントやアカデミズムの領域でもその主体性が剥奪されるのか。DSDsにはそもそも様々な体の状態があり、それぞれに切実さも異なるはずが、なぜ神話的な「男でも女でもないハーマフロダイト」のようなイメージが投影され、モノリスな集団のように語られるのか(あるいは、包括用語に賛成か反対かという分裂(splitting)した視線に晒されるのか)。そしてセメンヤのように、その最も私的でセンシティブなはずの「生殖器」の話が、その私的性が当たり前のように剥奪されて、好きなように語られるのだろうか。

 DSDsを持つ人々に対する差別というのは「社会的」差別として現れることが少ないが、その社会的差別を可能とする、より「原初的(primitive)な差別」構造を見ていかなくては理解ができないように思われる。ここでは、なぜそういったスティグマが生まれるのか、そしてそういう偏見がどのような「差別」をもたらすのか。DSDsを持つ人々に対する「原初的差別」として、「標本化」、「オリエンタリズム」と「聖別」、「人身御供」、「見世物小屋」をキーワードにして考える。

 

 

(1)スティグマの構築

 「男でも女でもない」というスティグマの発生については、女性(female)・男性(male)の身体の構造に対する、前述の社会的生物学固定観念の強迫化がまずあるだろう。近代医学の「要素還元主義」・「特定病因論」によって、女性・男性の体の違いの、なにか1つの普遍的な本質のようなものが様々な要素に求められ、その都度「例外(男でも女でもない)」が構築されていった歴史がある3

3ただし、現在のDSDs専門医療では、AIS女性に対して、レセプターの知識などの内分泌学や分子生物学の進展、各種エヴィデンスから「女性であることには変わらない」と説明されるなど、その強迫性は薄れつつある。今はもう、ターナー症候群の女の子・女性を「性の反転した男性」とも「人間として許される範囲の,生物学的に中性状態にある人」とも「生物学的には中性」と思う人もいない。

 

DSDsに対する社会的生物学固定観念

 

 もうひとつは、社会的ステレオタイプを形成する循環的な構造である。「男でも女でもない性」というイメージは、メディアのセンセーショナリズム等により、自分はそういうイメージに該当するとする当事者が前面に出ることで、大多数の当事者・家族がそういったステレオタイプに晒されることを恐れてますます隠さざるを得ず、個別に孤立する状況となり、社会ではさらにステレオタイプが強化されていく構造があると思われる。たとえばだが、当事者の大多数は自身をLGBTQ等性的マイノリティの一員とは全く思ってもいないため、そういったコミュニティに現れることはほとんどない一方、DSDsを持ちたまたま性別違和やノンバイナリーの性自認の人、同性愛・両性愛の人、あるいは,自分は<インターセックス>だと自称する人だけが、LGBTQコミュニティに現れることになるため、LGBTQコミュニティにおいても<インターセックス>というステレオタイプが強化されていくわけである4

 

DSDsに対するステレオタイプの循環的構造

4このもう一つの要因は、DSDsを持つ人々自身が他のDSDsのことをほとんど知らず、特にノンバイナリーの性自認を持つ当事者の人々は、それが<インターセックス>のステレオタイプに該当するとのことから、そういうものがインターセックス性分化疾患)だと思いがちになるという面もある。このような情報のバイアス(偏り)は、例えば他にも、性別違和専門のクリニックでは性別違和のあるDSDsの人々しか現れず、その他の多くの当事者の切実なリアリティというものが見えなくなるということや、「性分化疾患」「インターセックス」という用語でコミュニティを作ったり調査を行っても、大多数の当事者・家族は、そもそもそういった包括用語自体を知らない、知っていてもそういう用語に「男でも女でもない」という二次的なトラウマにもなりかねないスティグマが投影されていることからコンタクトを取ろうとすることは非常に少なくなるということもある。そのためdsd-LIFEの調査では、AISCAHターナー症候群、クラインフェルター症候群など個別の体の状態名(これであれば「disorder(逸脱)」という表現を拒否する当事者も異議は唱えない)で、それぞれに個別に調査を行い総合するようにしている。

 

 さらに分かりにくくしているのが「ポーザー(poser)」の問題である。ポーザーとは、DSDsインターセックス)コミュニティの用語で、何らのDSDsインターセックスの体の状態)を持たないのに「自分はインターセックスだ」と「振りをする人」、あるいは何らかのDSDsを持っているが「自分は両性具有だ」と大袈裟に言う人を指す5

 

ポーザー現象

5ポーザーの存在は、 Association of American Medical CollegesAAMC)のLGBT及びDSDs支援のテキストブックや、オランダの報告書でも指摘されている。「「インターセックス」と名乗る人たち(特にトランスジェンダーの成人)の中には、DSDと認識される体の状態で生まれてこなかった人もいる」Hollenbach,A・前掲注(628頁。「診断されたわけでもないのに、自分をインターセックスであると自称する人たちもいる。」van Lisdonk・前掲注(423頁。ポーザーで最も有名なのは、社会学者のハロルド・ガーフィンケルの『エスノメソドロジー』におけるアグネスであろう。日本語訳版では割愛されているが、トランスセクシャルである彼女は、当初自身をインターセックスであると、社会学者のガーフィンケルや、性別同一性概念の提唱者の一人である心理学者ロバート・ストラ-に話していたが、後に12歳から女性ホルモンを服薬していただけであったとストラ-に告白している。Garfinkel, Harold 1967 'Appendix to chapter five' in Garfinkel, Harold Studies in Ethnomethodology, pp.285-288. 当然だが、性別違和のある人やトランスジェンダーの人々が社会的差別から「自分はインターセックスだ(生物学的理由がある)」と言うということは十分あり得ると思われる。しかしそれはDSDsに対する偏見を助長することになり、またそういうった切実さとは別に、ある種の「解釈的不正(Hermeneutical Injustice)」(マイノリティの具体的な困難を理解しようとせず、マジョリティや他の集団が自分に都合よく解釈して利用すること)によって、他の集団の人々との違いが不明瞭にされることを、インターセックス活動家のモーガン・カーペンターが指摘している。 M.Carpenter・前掲注(98

 

 EU圏のLGBTQコミュニティで行われた大規模調査では, 「自分はインターセックスだ」と自己申告した人で,病院で特定のDSDの診断を受けたと自己申告した人は14%に留まり,「診断を受けていないが自分でそう思った・他の人にそう言われた」とした人が59%に登ることが明らかになっている3.1

 

 

 短絡的な思考では,性同一性障害の診断を受けた人たちとトランスジェンダーの人たち一般の「診断があるかどうかで本物か偽物か」という議論を連想して,医者に診断されないといけないのかと考える人もいるかもしれないが,DSDsというのはたとえば糖尿病や小児がんのように,生物学的・医学的に「発見」されるもの「判明」するもので,自己申告によるものではないことに注意しなければならない。

 DSDsについての専門的な知識がなければポーザーを見極めることは難しく、アカデミズムの人でもそのまま信じてしまっている例は,海外のDSDsインターセックスのコミュニティ内でも指摘されている。日本においても,コミックの影響でターナー症候群を女性から男性に変化する体の状態であると本気で思っていたり,「自分は男性に生まれたが男性外性器から生理が現れるようになり,調べてみたらアンドロゲン不応症で子宮があることが分かり,女性になった」と自称する活動家の話をそのまま信じ込み,フェミニズムセミナーに招待したている大学の講師もいるような状況である(アンドロゲン不応症の場合は子宮は発達せず卵巣もないため,生理も発生しない)。このようなポーザーの人はむしろアカデミズムや社会で注目を集めることが多く,ここには,社会の側が<インターセックス>という表象に何を見たいと思っているのかということが如実に現れているように思われる。

 

(2)DSDsを持つ人々の「標本化」

 

「誰も私を見なかった。大丈夫?って言ってくれた人はひとりもいなかった。シーツを取ったら(筆者注:裸になったら)今度は私以外見なくなった。こう思ったの。この人達みたいに体から心を引き剥がせたら、これは終わるんだって」CAHを持つ女性)6

「彼ら(医学生)はテーブルの周りに立って私のズボンを下ろしてジロジロ見たんです。それが私の覚えていること。本当に嫌だった。私は本当に嫌でした。いつも自分が展示されているように感じていた。私はフリークスなんだと思った。私はずっと研究対象だったんです」(CAHを持つ女性)6.1

「私たちは医学的な好奇心の対象として見られていたんです…。彼らが私にしていることを,私がどう感じるかなんて気にもせずに」CAHを持つ女性)6.1

 

 そしてこのような循環構造を駆動しているのは、選択的に「そういうものを見たい・いてほしい」(あるいは「なりたい・ありたい」)という「観客」7側の「オリエンタリズム的な享楽」と、それを可能とする「生物学的興味への還元化」「標本化」であるように思われる。

7インターセックス活動家のジム・アンブロースは、自身がインターセックスについてLGBT系メディアに寄せたエッセイで、AIS女性とのツーショットで撮影した写真を送ったところ、男女半々の写真にすげ替えられたエピソードから、<インターセックス>という見世物小屋に対する「観客の問題」を指摘している。:J. Ambrose. I Thought People Like That Were Clip Art/A Modern Minstrel Show. 2014(現在リンク切れ)(日本語訳:ネクスDSDジャパン『現代のミンストレルショー』(2020930日取得))

 

 DSDsを持つ人々は医療の場で、かつては研修医が取り囲む中で生殖器の検査が行われたり、全裸の写真を撮影されるようなこともあった。ここに見られるのは、「体から心を引き剥がす」、すなわち「生物学的興味への還元化」、あるいは人間存在そのものの「パーツ化」「標本化」である。

 裸の写真は決まったように眼の部分が黒い帯で隠されていた。ISNAの設立者であるシェリル・チェイスは、眼を隠すのは、撮影する側が「一方的に見る側」であり、その身体を自由に行使してよい立場であることを示していると指摘している8。これは本人が許可したからOKというものではないことも以前から当事者団体で指摘されている。そういう写真を見ることで、自分たちは「見世物小屋」のような扱いを受ける存在なのだと思わせてしまうからだ。目を隠され抽象化(観念的パーツ化)された全裸の身体は,「標本」のように当事者の人々全体を容易に指し示すことになる。そこでは,人間の尊厳も主体性も切除されているのである。

 

8北米インターセックス協会(ISNA)代表のCheryl ChaseBo Laurant)とのパーソナルコミュニケーション(2018/7/4来日時)、あるいはDreger A. Jarring bodies: thoughts on the display of unusual anatomies.” Perspectives in Biology and Medicine. 43(2):161-172, 2000.

 

 

(3)オリエンタリズム的認知と「聖別」

 

「でもそういう「インターセックス」って私全体を言われてるみたいなものなんです。そういう言葉を使うことで、あなたは私になにかの役割や人物像を押し付けてるわけです。私からすれば、そういうのこそインターセックスの障害になってる。(筆者中略)「私はインターセックスです」というのは私が自分の中で感じてることじゃない。それって、あなたが考えてることなんです。」AISを持つ女性)9(強調筆者)

「オリエントとは、むしろヨーロッパ人の頭の中で作り出されたものであり、古来、ロマンスやエキゾチックな生き物、纏綿たる心象や風景、珍しい体験談などの舞台であった。オリエントとはそこに全東洋が閉じ込められた舞台なのである。その時オリエントは、(筆者中略)ヨーロッパに附属する演劇舞台としての外観を呈するのである。」10

 

 サイードは、西洋がステレオタイプな東洋イメージを作り出し、そこに憧憬と偏見という分裂(splitting)したイメージを抱くことを「オリエンタリズム」と呼んだ。サイードオリエンタリズム的言説を、西洋の知識人の「東洋」に対するエキゾチシズム的「興味関心」を媒介として作り続けられ、「今の世界にかわりうる新しい世界」として理解され、その作り上げられた観念が権威「正当性」あるいは「自明の」真理のような地位を獲得し、場合によっては「オリエント」という対象を支配し再構成しようとする一定の目的意識であるとしている。

 

 

 たとえば,かつてダウン症候群は、それを持つ人々の「目の間が離れているという容姿や知的に低いという特徴」を、「知的な」西洋人から「痴呆的な」東洋人(モンゴロイド)までの連続体的な進化・退化の過程のあらわれであるという、どこから手を付ければいいのかもわからない神話的・差別的なイメージの投影から、「蒙古痴呆症(Mongolian idiocy)」と呼ばれていたが、ある種の障害や体の特徴,疾患などに対しては、神話的・差別的イメージが構造的・暴力的に投影されることがある。DSDsインターセックス)の体の状態に対しても同じく、神話的な「両性具有(ハーマフロダイト)イメージ」が構造的に投影されていおり、そこには、西洋人から見た東洋イメージのように、「観客」の側が何かエキゾチックなものを見たいという享楽がはたらいているように思われる。

 

 

 DSDsを持つ人々に対する「差別」は非常にわかりにくいと思われるが、サイードがここで「憧憬」という表現を使っていることは重要だろう。DSDsを持つ人々に対する「差別」については、性別ではなく、原初的な「聖別(sacred)」の問題を考えねばならないと思われる11。「聖別(sacred)」とは、「穢れ・恐るべきもの」(all bad)と同時に「聖なる・魅了するもの」(all good)という、両義的で分裂(splitting)した原初的(primitive)で非合理的なタブーの宗教感情を表す12。このような分裂の構造は、たとえば排除されると同時に「感動を与える存在」としての<障害者>など、 周縁(marginal)に位置させられる集団に対してよく起きていることであると思われるが、DSDsに対しても、セメンヤのように、排除と同時に、一見良いこと、あるいは「善意」のように「グラデーション・スペクトラム(連続体)」「男女の境界のなさ」の象徴のように取り上げられるなど,「祀り上げ」のような原初的な感情,「原初的差別」がむき出しで現れているように思われる。そこでは両者とも、自分の見たい神話的イメージを見る「観客」側の享楽だけが先行し、現実の当たり前の人間は見失われてしまうのである。

11すなわち,フォビア(嫌悪)だけでなくフィリア(偏愛)について(あるいはその分裂について)も考えねばならないということである。特に,DSDs/ インターセックスに対しては,それに触れる周囲の人々自身の性役割や性規範,性別そのものに対する個人的な情動が激しく喚起され,対象(現実的にはファンタジーに過ぎない)に対して自他の境界なく「同一化」する現象がかなり強く起きているように思われる。精神分析の対象関係論学派では,乳児の原初的(primitive)な対象関係として,投影性同一化,取り込み同一化,付着同一化などを挙げている。投影性同一化・取り込み同一化では,全体的自律的な人間(全体対象)を認識できない乳児が,ファンタジーとして,自分の都合を満たしてくれる「良い対象(all good)」,満たしてくれない「悪い対象(all bad)」に分裂させて認知し,自分にとって良い部分(パーツ)は取り込んで自身の器官化し,悪い部分は排泄し,自分にとって良い部分に同一化するわけである。この時乳児にとってはまるで「良い」と「悪い」の2 つの対象があるように感じられている。付着同一化は,自身の代理皮膚のように対象の表層に付着する形式を言う。単純な「良い」「悪い」の部分対象関係的分裂と投影・取り込みとその表層への付着は,DSDs /インターセックスに対する社会的認知形式でもよく起きているように思われる。たとえば「用語」という部分対象においては,単純に「インターセックス」を「良い対象」,「性分化疾患」を「悪い対象」として対立関係を想定したり,「理念」という部分対象においては「グラデーション(スペクトラム)」を良い対象,「“男女二元論にこだわる”当事者」を悪い対象,「LGBTI」か「それに入らないか」として分裂させて対立構造として認知するわけである。しかし,このような「(自分にとって都合の)良い・悪い」「自分に属するものが『良い方』,そうではない方は『悪い方』」という単純な形式に分裂した対象関係は,ファンタジーとしての部分(パーツ)だけにフェティシズム的に拘泥した認知形式,「観客」の側の自分が見たいモノを見る享楽的な視線でしかなく,全体的自律的対象としての全体像や,人間(自分と異なる他者)そのものは見失われることになる。

12ロジェ・カイヨワ塚原史・吉本素子・小幡一雄・中村典子・守永直幹共訳、『人間と聖なるもの(改訳版)』せりか書房1994年.

 

 その人個有の心を引き剥がされ「パーツ化」「標本化」された空っぽのカラダは、それが悪意であれ善意であれ、社会運動理論であれ、性科学的・心理学的・社会学的興味であれ、フェティシズム的興味であれ、人々の一方的な望みや享楽のために行使されやすくなる。つまり、対象に対する「支配や再構成」が起きるわけだ。

 そしてそれは,「支援」という名の「支配」にもつながる。たとえば、第三世界フェミニズム思想研究者の岡真里は、西洋人女性たちがオリエントの女性オリエントの女性たちを前に、西洋人男性の視点に同一化し、窃視症的な主体として、男性のまなざしで彼女たちを観察し、西洋人女性が同一性/自己を確立し、主権をもった主体の位置を獲得するための大地・起源とした構造について述べている13。これと同じようなことが、女性やLGBTQなど性的マイノリティの人々と、DSDsを持つ人々との関係でも起きているのではないかと思われる。

13岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か 第三世界フェミニズムの思想』青土社2000

 

 すなわち,ジェンダー論を中心とするフェミニズム、LGBTQ等性的マイノリティの人々のクィアセオリー・運動の人々は,窃視症的な主体として、構造的にDSDsを持つ人々(と言うよりも,そこから主体性と人格を剥奪した道具としても身体)を、かつての医学と同じまなざしで観察し、自分たちの同一性・主体性を確立するための大地・起源としているというわけである。

 

 

 

(4)「人身御供」としての<インターセックス

 

 英語の“sacrifice(供犠・人身御供)”は、ラテン語の“sacersacred:聖別)”と“facere(強要する)”、すなわち「聖なるものにする」に由来する。DSDsの体の状態やその人々は、「らしさ」や「性自認」は自然か環境か、sexgenderか、男女の境界はどこにあるのかないのかといった議論の度に、「男女の境界はない」証左・観念的object(パーツ)として呼び出され、まるで「人身御供」のように行使されてきている。インターセックス活動家のエミ・コヤマは、2002年の北米の大学の調査で、回答が寄せられたジェンダー論等での講義のほとんど全てが、セックスとジェンダーの社会構築理論を取り上げんがためにインターセックスの問題を導入していたことを指摘している14

14「ある回答者は次のように書いていた。「私はこの問題をジェンダーの問題に関連させるようにしています。その方が議論しやすい人が多いのです。その方が簡単なんです。sex(そしてgender)は固定化されたものであるという学生自らの思い込み、つまり性別二元論を疑ってもらうには。」Emi Koyama, Lisa Weasel, From Social Construction to Social Justice: Transforming How We Teach About Intersexuality. Fall/Winter 2002 Issue of Women's Studies Quarterly 2020930日取得)

 

 近年でもSNSを中心にして繰り広げられてきた、トランスジェンダーの女性に対する差別的な「誰が女なのか」という言説に対しては、「生物学的にも男女を定義できない」と<インターセックス>が持ち出される例は枚挙にいとまがない。

 さらに,法務省刑事局の「法務省性犯罪に関する刑事法検討会」において、<インターセックス>を含んだ「LGBTIQA+」を掲げるLGBT活動家が、「何をもって男性器・女性器と言うのか」とDSDsを持つ子どもたちの外性器の図を公然と展示(display)した例もある。この件については、出席していた複数の委員の方から、このような図を出すことについての倫理的な問題はないのかと日本性分化疾患患者家族会連絡会に問い合わせをいただき、連絡会として抗議文も提出している。

 

www.nexdsd.com

 

 

 あるいは,レズビアンMTFトランスジェンダーレズビアンスペースに入ってもいいかという議論においては、陰核肥大のあるCAHの女性のことなのだろうか「チンコ付きの戸籍女性のインターセックスはどうなのか?」といった発言が、トランスジェンダーを支持するセックスワーカー支援活動家から現れるような状況である(現在このツイートは削除されている)。

 

 

 


  また、やはりこの活動家が代表である団体も、<インターセックス>を含んだ「LGBTIQA+」を掲げた文書を自身のサイトにアップしている。先にオーストラリアの「インターセックス」当事者団体が、「インターセックスの人々は、LGBTの団体・活動家たちの利益のためだけに、不注意な態度で誤った説明をされ、利用されるだけ利用されてポイッと捨てられてしまってばかり(thrown under the bus)である」と強く訴えていることを指摘したが、LGBTQ等性的マイノリティやアライの活動家が一方的に掲げる「LGBTIQA+」というものが、どのようなものなのか、如実に表れているように思われる。そこでは、切実に女性・男性である大多数の当事者のことは全く想像さえせず、それを苦に自死さえする、DSDsを持つ人々の極めて私的で極めてセンシティブな領域であるはずの「性器」「生殖器」の話を、あるいはその人々自身の存在自体を、全く望みもしない形で、まるで自分のモノのように、パーツのように扱っている自分自身の姿は全く振り返られないのである15

15「男女二元論を批判する当事者もいる」「性別違和がある人もこれだけいる」という反論もあるかもしれない。当然ながら、性別違和の蓋然性の高い体の状態については、本人の性別違和のケアをしていかねばならないことは論をまたない。しかしそれこそ、そう言う人が「選択的に」そういう当事者だけを取り上げているという証左であろう。筆者が問題視しているのはあくまで、人間を自分の目的の「人身御供」のように用いる見世物小屋の観客」の問題である。

 

 哲学者の中村雄二郎は、「近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった現実、リアリティ」の一つとして「関係の相互性」を挙げている16。近代科学の上に発展してきた近代医学は「客観性」を重視する。それ自体は重要なものであろう。しかしそこでは観察される側は「対象(モノ)」と化し、観察者となる側は中立と普遍性を装いつつ、「見ている方の主体」・「視線」は無謬の中に消し去ってきたとも言える。そこでは、「対象(モノ)」とされる人間の体験がどのようなものになるのか全く想像されず17、またその人が一体自分が何をしているのかという、自分を見る自分の視点もすっかり抜け落ちているのである。陰核の肥大のあるDSDsを持つ女性に対しての手術は見た目だけが重視され、その神経節は全く関心に入れられなかったが、<インターセックス>を自身の理念や理論のために自己目的化(モノ化),あるいは「入り口の石」「人身御供」とするアカデミズムの人々も、その人間的体験に対する想像力のなさにおいては、全く同じであると思われる。

16中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波書店199227

17「客観性は、主観と客観、主体と対象の分離・断絶を前提としている。」「客観や対象とは、主観や主体の働きかけを受け被る、単なる受け身のもの、受動的なものでしかない。」 中村・前掲注(1519

 

 

(5)「見世物小屋」としての<インターセックス

 

「テレビ局から質問依頼があって。(筆者中略)手術についてとか、男性と女性の境界についての質問でした。『ちがう、そんなことじゃない』って思って。(筆者中略)私が思ったのは、それってまた『見世物小屋freak show)』になるってことです。ああいうのは『見世物小屋』なんです。」(CAHを持つ女性)18

「人々はキャスターの話に色々な理由で興味を持ちました。性別(gender)やらアイデンティティやら、そういったものに。でも実は人々は、南アフリカを最後の辺境な植民地として興味を持ったのだと私は考えています」。 「南アフリカはどこもかしこも白人が所有するものなのだ、みたいな感覚がある。白人はそこで好き勝手に動き回って、そこで気持ちよくなれるものなのだ。そんなことを言いたげな。キャスター・セメンヤに起きたことも同じだと感じています。これもまた南アフリカと同じ。白人社会は南アフリカを所有し、何かを言える権利があるというわけです。」(シソンケ・ムシマン)19

 

 

 南アフリカの人々が、セメンヤさんを本当に大切にしていることは先に述べた。たとえば、ネルソン・マンデラの元パートナーで、女性人権活動家のママ・ウィニーマンデラは、「彼女は私たちの娘です。誰もこの娘を検査にかけるつもりはありません。私たちに手を出さないで下さい(Don't touch us)。私たちに手を出さないで下さい。それでも私たちに手を出そうとする人は、私たちをなおも利用し、侮辱し続けていくでしょうが」と述べている20

 

 

 この「手を出すな」とはどういうことか。実は南アフリカでは、セメンヤが被っている異常な状況について、19世紀に女性の性器のサイズが肥大していると西洋人の好奇心の対象となり、英国に連れて行かれ、ロンドンの見世物小屋でアトラクションとして展示された,アフリカの黒人女性サラ・バートマンの受難との関連が当初から指摘されている21(図)。サラ・バートマンは、その後フランスの動物調教師に売られ、1年後に病死。死後、彼女の体は解剖され、脳と性器がホルマリンで保存され、19世紀のヨーロッパの科学者たちによって「人間と猿の間のミッシングリンク22として議論された。彼女の「標本」や全裸の図画はパリ人類博物館で1974年まで一般公開されていた。

 

 

22民俗学では、異なるものを結ぶ「橋」に人柱が埋められた伝説についても論じられている。また,文化人類学では「供犠(sacrifice)」(人身御供,生け贄)は,なにかの対立や,共同体内での矛盾や葛藤を解消するために,第3項となる身体的「徴(しるし)」を持って生まれた人を選び,その人を「人ではないもの」にして祀り上げることで,共同体の人々を多幸的な「連続体の意識」へと導き,対立や葛藤を融解する行為としている。

 

 このような行いは、現代の我々にとっては、いかに差別的で残酷で、非人間的な行為か論をまつことはないだろう。しかし、DSDsを持つ人々は、21世紀の現代でもその全裸の写真が「性の多様性」の一つとして展示されている状況なのである。

 2015年、著名なトランスジェンダー支援者で、インターセックス支援者も自認する性科学者ミルトン・ダイアモンドによる「Nature loves diversity, but our society may not 人間の性をめぐる諸言説の本当と嘘」(通訳と日本語資料作成は,性的マイノリティ支援者を自認する大阪府立大学(当時)教授の東優子氏)と題された講演では、(あるいは「性自認に配慮」した表現なのだろうか)「精巣があり、女性的な外見をしたXYの人」として、AISの有色女性の全裸の写真が展示されている23。(もう一つ我々が注視しなければならないのは、この講座で展示されている全裸もしくは半裸の写真のDSDs当事者が、全員「有色人種」と呼ばれる人々であるということだろう。)

 

画像のぼかしは筆者による

 

23日本性教育協会JASE 現代性教育研究ジャーナル2015No.56, 2020930日取得)

 

 あるいは2019年、東京レインボープライドのサイトでは、韓国のLGBTQ活動家、JLIPSのブロク記事の翻訳で24、やはりDSDsCAH)を持つ複数の女の子たちの全裸の写真が展示され、「このような子供たちは、外部生殖器が陰核(クリトリス)と陰茎(ペニス)の中間的な形態をしているためジェンダー学的に見れば、この子は「完全な女児」ではないでしょう。」とし、その解決策として各国で第三の性別欄が設けられているとしている。

 

画像のぼかしは筆者による

24東京レインボープライド「よくわかるLGBTQ +用語講座[第12回]法的に男や女ではない「X」~ インターセックス,X ジェンダー~」2019.09.22,https://trponline.trparchives.com/magazine/lgbtqcourse/15683/2020年11月30日時点で東京レインボープライドのHPから連載自体が削除されているため,キャッシュをリンクする。(2020年10月18日キャッシュ取得)

 

 おそらくだが、この講演者・活動家も、そしてそれを翻訳した人も、これを見た人も、一体自分が何をしているのか、一体自分が何を見ているのか、振り返られていることはないように思われるが,これこそが「窃視症的な主体」と言われるものだろう。このような「標本化」と「オリエンタリズム的興味」の「見世物小屋」のようなグロテスクなアマルガムに対して筆者が連想するのは、アイヌの人々の遺骨が、研究者たちによって掘り出され研究された事件である。人骨を研究してきた人類医学者は「人類学者はアイヌのためにこの研究をしている」「われわれの研究がアイヌの先住性を証明する」と自己正当化していると言われているが25、筆者は、あるいはこれは「自己正当化」でさえなく、本気でそう思い込んでいる、つまり自分が一体何をしているか全く分かっていない可能性も考えなければならないと思っている。

 これらがこの20年間で起きてきたことであり、また同時に、DSDsを持つ人々に対してに限らず、歴史的にも地理的にも、いつでもどこでも誰ででも、様々に構築されるマージナル集団に対して起きてきたことなのだろうと筆者は考える。なるほど確かに、人を標本のように扱える態度というのはこれほどに凡庸なものであり、これはある種の空っぽの「善意」によっても可能なのだということも。

 結論を言おう。インターセックス>とは,「男性(male)ならこういう体の状態のはず,女性(female)ならこういう体の状態のはず」とする,1950年代前後以降の強迫的な社会的生物学固定観念,そしてジェンダークィア論などのアカデミアを含む社会全体での,一見「善意」のまといをしながらも,実際には「両性具有のようなものを見たい」あるいは「そういうモノになりたい・ありたい」という窃視症的な視点と付着・摂取同一化的な社会的享楽(フィリア:偏愛)によって,極めてパフォーマティブに(見世物小屋的に)構築され続けているものである。

 親御さんたちで、なぜ子どもにDSDsの話を隠したり、手術を急ぐ人がいるのか。あるいは、筆者がネクスDSDジャパンの活動で「インターセックス」という用語を使わない最も大きな理由は、すでに<インターセックス>という用語に対しては、ここにまで転倒した空っぽの視線がまとわりついているからであり、ブルネラブルな状況にある人々がそのような視線にさらされることを避けるためである。

 そのような空っぽの視線がある一方、自分の体がどうなっているのか、これを訊くと親は傷つくのではないかと不安と恐れの中で問う子どもに、罪責感と恐れをたたえた眼差しで何も言えなくなる親。これは決して「隠す」というものではない。その両者の恐れと不安の眼差し、それこそが互いに相手を想う心があるという証左である。

 マージナルな存在として構築された人々が「人間」であるためには、どうすればいいのか。それは、我々人間自身が、男性であれ女性であれその他であれ、人間性を失わないようにし続け、「人間」であり続けなくてはいけないということなのだろう。

 

 

Ⅳ.おわりに

 両性具有イメージとは何か。それは我々がこの世界に生まれ生きていく中で、時には身を裂くほどのやり切れなさから生まれる、境界なき世界、「男性・女性という枠組みから解放された新しい世界」への憧憬なのかもしれない。それは生まれる以前、分化以前の融け合うような世界なのだろう。そんな夢がDSDsを持つ人々に投影され、あるいは悪夢として恐れられ、あるいはある種の憧憬の世界への扉とされるのであろう。そこには他者という自分を傷つけるかもしれない存在はいない。しかしそこには尊厳ある生身の「人間」もいないのだ。

 性という領域は自他の区別が失われることが多く、しかし自分の欲望と相手の望みとの混同は、性的ハラスメントやレイプ被害のように相手の存在を深く損なうこともある。

 我々は、境界なき世界に魅了されるばかりではなく、自分の夢とは異なる「他者(=人)」を見落とさないことが重要であろう。

 

 

1もちろん男児の乳房発達や女児の二次性徴不全など目に見える形で表れるケースもあるが、その人がたまたま性別違和があったり、スポーツの領域などでそれを自身の一種の「ギフト」とすることがない限りは、たいていの場合すぐにどうにかしてほしいと思うものである。また、DSDsの人は「顔貌が“中性的”」などという偏見もあるが、そういう顔貌は特にDSDsに限らず一般的なものであろう。

2van Lisdonk・前掲注(452-53

3ただし、現在のDSDs専門医療では、AIS女性に対して、レセプターの知識などの内分泌学や分子生物学の進展、各種エヴィデンスから「女性であることには変わらない」と説明されるなど、その強迫性は薄れつつある。今はもう、ターナー症候群の女の子・女性を「性の反転した男性」と思う人もいない。

3.1 European Union Agency for Fundamental Rights(FRA), A long way to go for LGBTI equality(2020)

4このもう一つの要因は、DSDsを持つ人々自身が他のDSDsのことをほとんど知らず、特にノンバイナリーの性自認を持つ当事者の人々は、それが<インターセックス>のステレオタイプに該当するとのことから、そういうものがインターセックス性分化疾患)だと思いがちになるという面もある。このような情報のバイアス(偏り)は、例えば他にも、性別違和専門のクリニックでは性別違和のあるDSDsの人々しか現れず、その他の多くの当事者の切実なリアリティというものが見えなくなるということや、「性分化疾患」「インターセックス」という用語でコミュニティを作ったり調査を行っても、大多数の当事者・家族は、そもそもそういった包括用語自体を知らない、知っていてもそういう用語に「男でも女でもない」という二次的なトラウマにもなりかねないスティグマが投影されていることからコンタクトを取ろうとすることは非常に少なくなるということもある。そのためdsd-LIFEの調査では、AISCAHターナー症候群、クラインフェルター症候群など個別の体の状態名(これであれば「disorder(逸脱)」という表現を拒否する当事者も異議は唱えない)で、それぞれに個別に調査を行い総合するようにしている。

5ポーザーの存在は、 Association of American Medical CollegesAAMC)のLGBT及びDSDs支援のテキストブックや、オランダの報告書でも指摘されている。「「インターセックス」と名乗る人たち(特にトランスジェンダーの成人)の中には、DSDと認識される体の状態で生まれてこなかった人もいる」Hollenbach,A・前掲注(628頁。「診断されたわけでもないのに、自分をインターセックスであると自称する人たちもいる。」van Lisdonk・前掲注(423頁。ポーザーで最も有名なのは、社会学者のハロルド・ガーフィンケルの『エスノメソドロジー』におけるアグネスであろう。日本語訳版では割愛されているが、トランスセクシャルである彼女は、当初自身をインターセックスであると、社会学者のガーフィンケルや、性別同一性概念の提唱者の一人である心理学者ロバート・ストラ-に話していたが、後に12歳から女性ホルモンを服薬していただけであったとストラ-に告白している。Garfinkel, Harold 1967 'Appendix to chapter five' in Garfinkel, Harold Studies in Ethnomethodology, pp.285-288. 当然だが、性別違和のある人やトランスジェンダーの人々が社会的差別から「自分はインターセックスだ(生物学的理由がある)」と言うということは十分あり得ると思われる。しかしそれはDSDsに対する偏見を助長することになり、またそういうった切実さとは別に、ある種の「解釈的不正(Hermeneutical Injustice)」(マイノリティの具体的な困難を理解しようとせず、マジョリティや他の集団が自分に都合よく解釈して利用すること)によって、他の集団の人々との違いが不明瞭にされることを、インターセックス活動家のモーガン・カーペンターが指摘している。 M.Carpenter・前掲注(98

6BBC・前掲注(79

6.1Meyer-Bahlburg, H., Khuri, J., Reyes-Portillo, J., & New, M. I. (2017). Stigma in Medical Settings As Reported Retrospectively by Women With CAH for Their Childhood and Adolescence. Journal of pediatric psychology, 42(5), 496–503.

7インターセックス活動家のジム・アンブロースは、自身がインターセックスについてLGBT系メディアに寄せたエッセイで、AIS女性とのツーショットで撮影した写真を送ったところ、男女半々の写真にすげ替えられたエピソードから、<インターセックス>という見世物小屋に対する「観客の問題」を指摘している。:J. Ambrose. I Thought People Like That Were Clip Art/A Modern Minstrel Show. 2014(現在リンク切れ)(日本語訳:ネクスDSDジャパン『現代のミンストレルショー』(2020930日取得))

8北米インターセックス協会(ISNA)代表のCheryl ChaseBo Laurant)とのパーソナルコミュニケーション(2018/7/4来日時)、あるいはDreger A. Jarring bodies: thoughts on the display of unusual anatomies.” Perspectives in Biology and Medicine. 43(2):161-172, 2000.

9van Lisdonk, N.Callens, Labeling, stigma and discrimination: experiences of people with intersex/DSD. TvS (2017) 41-2, pp95-104

10Edward Wadie Said, Orientalism. Pantheon Books,1978.(今沢紀子訳『オリエンタリズム(上・下)』平凡社1993年)17

11すなわち,フォビア(嫌悪)だけでなくフィリア(偏愛)について(あるいはその分裂について)も考えねばならないということである。特に,DSDs/ インターセックスに対しては,それに触れる周囲の人々自身の性役割や性規範,性別そのものに対する個人的な情動が激しく喚起され,対象(現実的にはファンタジーに過ぎない)に対して自他の境界なく「同一化」する現象がかなり強く起きているように思われる。精神分析の対
象関係論学派では,乳児の原初的(primitive)な対象関係として,投影性同一化,取り込み同一化,付着同一化などを挙げている。投影性同一化・取り込み同一化では,全体的自律的な人間(全体対象)を認識できない乳児が,ファンタジーとして,自分の都合を満たしてくれる「良い対象(all good)」,満たしてくれない「悪い対象(all bad)」に分裂させて認知し,自分にとって良い部分(パーツ)は取り込んで自身の器官化し,悪い部分は排泄し,自分にとって良い部分に同一化するわけである。この時乳児にとってはまるで「良い」と「悪い」の2 つの対象があるように感じられている。付着同一化は,自身の代理皮膚のように対象の表層に付着する形式を言う。単純な「良い」「悪い」の部分対象関係的分裂と投影・取り込みとその表層への付着は,DSDs /インターセックスに対する社会的認知形式でもよく起きているように思われる。たとえば「用語」という部分対象においては,単純に「インターセックス」を「良い対象」,「性分化疾患」を「悪い対象」として対立関係を想定したり,「理念」という部分対象においては「グラデーション(スペクトラム)」を良い対象,「“男女二元論にこだわる”当事者」を悪い対象,「LGBTI」か「それに入らないか」として分裂させて対立構造として認知するわけである。しかし,このような「(自分にとって都合の)良い・悪い」「自分に属するものが『良い方』,そうではない方は『悪い方』」という単純な形式に分裂した対象関係は,ファンタジーとしての部分(パーツ)だけにフェティシズム的に拘泥した認知形式,「観客」の側の自分が見たいモノを見る享楽的な視線でしかなく,全体的自律的対象としての全体像や,人間(自分と異なる他者)そのものは見失われることになる。

12ロジェ・カイヨワ塚原史・吉本素子・小幡一雄・中村典子・守永直幹共訳、『人間と聖なるもの(改訳版)』せりか書房1994年.

13岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か 第三世界フェミニズムの思想』青土社2000

14「ある回答者は次のように書いていた。「私はこの問題をジェンダーの問題に関連させるようにしています。その方が議論しやすい人が多いのです。その方が簡単なんです。sex(そしてgender)は固定化されたものであるという学生自らの思い込み、つまり性別二元論を疑ってもらうには。」Emi Koyama, Lisa Weasel, From Social Construction to Social Justice: Transforming How We Teach About Intersexuality. Fall/Winter 2002 Issue of Women's Studies Quarterly 2020930日取得)

15「男女二元論を批判する当事者もいる」「性別違和がある人もこれだけいる」という反論もあるかもしれない。当然ながら、性別違和の蓋然性の高い体の状態については、本人の性別違和のケアをしていかねばならないことは論をまたない。しかしそれこそ、そう言う人が「選択的に」そういう当事者だけを取り上げているという証左であろう。筆者が問題視しているのはあくまで、人間を自分の目的の「人身御供」のように用いる見世物小屋の観客」の問題である。

16中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波書店199227

17「客観性は、主観と客観、主体と対象の分離・断絶を前提としている。」「客観や対象とは、主観や主体の働きかけを受け被る、単なる受け身のもの、受動的なものでしかない。」 中村・前掲注(1519

18Callens N・前掲注(1141

19Anna Kessel・前掲注(139

20ABC News, Gender row: Semenya tests cast new doubt. 26 Aug 2009. 2020930日取得)

21The Star (South Africa)Gender row hits UN Traumatised teen sa's new Saartjie BaArtman. August 22, 2009.(現在リンクが途切れているため,保存記事をリンクする

22民俗学では、異なるものを結ぶ「橋」に人柱が埋められた伝説についても論じられている。

23日本性教育協会JASE 現代性教育研究ジャーナル2015No.56, 2020930日取得)

24東京レインボープライド「よくわかるLGBTQ +用語講座[第12回]法的に男や女ではない「X」~ インターセックス,X ジェンダー~」2019.09.22,https://trponline.trparchives.com/magazine/lgbtqcourse/15683/2020年11月30日時点で東京レインボープライドのHPから連載自体が削除されているため,キャッシュをリンクする。(2020年10月18日キャッシュ取得)